『羆嵐』は1915年(大正4年)に北海道苫前郡苫前村三毛別六線沢にて起こった日本最大の熊害事件をモデルにした長編ドキュメンタリーで、テレビやラジオにて見聞きした人も多いかと思います。「腹、破らんでくれ」「喉食って殺してくれ」といったセリフは、羆嵐の代名詞となっています。この本の著者は吉村昭さん。本は新潮社から発行されています。一晩で読み切れるほどのボリュームですが、読んだ後眠れるかは保障できません。
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※本記事中の引用文には、衝撃の強い表現や描写が含まれます。書籍の文を引用しているため、私個人の言葉ではありませんが、不快な気持ちになられる方もいらっしゃるかもしれません。十分にご留意ください。
この本との出会い
僕は5年前に北海道へ来たのですが、恥ずかしながら2年前までこの本を読んだことがありませんでした。北海道へ来る前に、姉にちらっと三毛別熊事件の話は聞いた記憶はあるのですが、事件の詳細については知りませんでした。この本を手に取ったきっかけは、確かフェリーの中で読む用の本を探しているときに、たまたま目に入ったので購入した。とかそんな感じだったと思います。
あらすじ
本の舞台は北海道の北海道苫前郡苫前村三毛別六線沢(現在の苫前町三渓)で、15軒の家屋に住んでいたのは開拓民の人々であった。加害ヒグマは12月になっても冬ごもりをしていない通称「穴持たず」のヒグマで死者数は6人。胎児と後遺症で亡くなった人を含めると合計8人に及ぶ。男たちの奮闘の果て、ヒグマは老練の猟師、銀四郎により追い詰められ...。
印象に残ったシーン
かれらは、大柄で乳房の張った島川の妻の体を思い起こしていた。色白の顔に艶々した黒い髪が対照的で、厚目の唇とうるみをおびた眼が、日頃からかれらの関心をひいていた。が、その豊満な体と魅惑的な容貌が、結果的には彼女に災いをもたらしたのだ、と思った。
かれらの中には、不謹慎にも川島の妻が凌辱される情景を想像する者もいた。彼女は激しい抵抗をせしめたが、それも効果はなく男に犯された。おそらく男は一人ではなく、数人であるにちがいなかった。「おい、見ろ」一人の男が、窓を凝視した。蓆の垂れた窓の枠板がはがれ、新しい木肌をのぞかせた裂け目に血がしみついている。かれらは、窓に近づいた。こびりついた血に黒い藻のようなものがまじっている。それは、根からぬけた数十本の長い毛髪だった。髪が板の破れ目にからまって強くひかれたために、ぬけたものにちがいなかった。かれらは、窓から島川の妻の体が運び出されたことを知ると同時に、闖入者の偽体の知れぬ力の強さにも気付いた。
吉村昭『羆嵐』1982 P32-33
「少しだ」大鎌を手にした男が、眼を血走らせて言った。「少し?」区長が、たずねた。「おっかあが、少しになっている」男が、口をゆがめた。区長たちは、雪の附着している布包みを見つめた。遺体にしては、布のふくらみに欠けていた。大鎌を雪の上に置いた男が、布の結び目をといた。区長たちの眼が、ひらかれた布の上に注がれた。かれらの間から呻きに似た声がもれた。顔をそむける者もいた。それは、遺体と呼ぶには余りにも無残な肉体の切れ端にすぎなかった。頭蓋骨と一握りほどの頭髪、それに黒足袋と脚絆をつけた片足の膝下の部分のみであった。「これだけか」区長が、かすれ声でたずねた。男たちが、黙ったままうなずいた
吉村昭『羆嵐』1982 P54
感想
僕は『羆嵐』を新潟へと渡るフェリーの中で初めて読んだのですが、その夜は目を閉じると情景が浮かんできて、なかなか寝付けなかった記憶があります。この本の特筆すべき点は句読点の使い方と、絶妙なセリフ加減でしょうか。この句読点で句切られているが故の「間」がより一層読者を本の中へ引き込む感じがします。さらに第三者視点の本文に加えて所々でセリフが入るので現場の雰囲気がヒシヒシと伝わってきます。「本なんてみんなそうだろ」と突っ込まれたら「たしかにそうですよね」としか返せません。
この本の中にはたくさんの男たちが出てくるのですが、人食い羆という圧倒的な存在を前にしたとき、精神的にどれほど人間が弱るかがよく映し出されています。自分がもし本の中の世界にいたら、いったいどの人物に一番近いだろう、と想像してしまいます。また、そういった登場人物の、責任感や悲壮感、怒りや憎しみなどが文面から読み取れます。僕は普段からたくさんの本を読むという訳ではありませんが、「本に引き込まれる」っていうのはこういうことを言うんだなぁと納得した記憶がありますし、読むのをやめたくてもついページをめくってしまう感覚を味わいました。
実際にヒグマと対峙して
僕はヒグマとの遭遇回数が多い方ではありませんが、十数メートルの距離で目撃したこともあれば、先輩猟師と一緒に鉈一本で手負いのヒグマを探したこともあります。ただ、間違いなく言えるのは、ヒグマという種全体が凶悪狂暴、狡猾で残忍というわけではなく、多くのヒグマは争いを好まず、人を避け、山の生態系の頂点として人知れず君臨しているということです。僕は渓流釣りや山菜取りもしますし、ハンターとしても山に入るため、ヒグマの存在を身近に感じることは多々あります。しかし、それでも山中でばったり遭遇したのは一度たりともありません(今後一切ない保障はありませんが)。目撃したのは市街地や農地に出没した個体のみです。気付かぬうちに、ヒグマの方から距離をとっているのだと思います。
今回紹介させていただいた『羆嵐』は、実際の熊害事件を基にしたドキュメンタリーとしては傑作だと思いますし、ぜひ読んだことのない方には読んでもらいたい一冊です。しかし、この本に登場する一頭は、数多くのヒグマの一頭にすぎません。この本をきっかけに熊について一人でも多くの人に興味を持っていただければ幸いです。
電子書籍版で396円とかなりのお手頃価格