Hunting 狩猟論

大義名分と私利私欲。クマを獲って変わったこと。

 皆さんお久しぶりです。春からなかなか更新できず、悶々とした日々を送っていましたが、やっとそれも解消されつつあります。見ての通りではありますが、ブログのデザインも大きく変えました。ちょっとカッコよくなったと思いませんか…?記事の書き方も、一週間ひたすら下書きを書き殴り、その次の週に投稿をするというスタイルに変えました。

クマとの向き合い方の変化

僕がクマ撃ちになりたい理由

 「マンホールを閉じる人」この話でも述べましたが、僕はもともと動物が好きで、中高生の頃は、どちらかというと動物愛護よりの思考でした。当時は、自分が鉄砲を持って野生動物を撃って稼ぐなんて、1ミリも想像していませんでした。

 ただ、人生とは何が起こるかわからないもので、大学で野生動物について学び、北海道の自然を知り、ヒトと動物の間で起きている問題に注目するようになります。そして「自分が学んだ知識を活かしたい、最前線で働きたい」という想いから現在の職につきました。

 そして、巡り巡り行きついたのがヒグマでした。市街地へ出没するクマが多く、猟友会のハンターは高齢化の壁に突き当たり、今後を担う若手も育たない。高齢化に伴い銃器による捕獲も年々厳しくなり、その分罠で捕殺するヒグマの頭数が増えていきます。そんな現状を見て、「僕は若手で追って撃って獲れる熊撃ちになりたい」そう思うようになりました。

掲げた大義名分

 やはり、駆除というのは「獲りたいから獲る」ではなく、それを行う大義名分がなければ、対外的にも精神的にも厳しいものがあります。例えば僕の場合「罠で無差別に捕獲されるクマを減らしたい」「有害個体だけを追って獲りたい」「最終的にクマと共存していきたい」こういった大義名分を掲げ、そのために今できる事はヒグマの捕獲技術を身に着けることと現場経験を積むことだと考えていました。

 また、銃器を扱うというだけで世間の風当たりは強く、さらに相手は“キュートでマスコット的なクマちゃん”です。

 僕自身、都会で生まれ都会で育ったのでよくわかります。都会に住んでいる人にとって熊の存在というのは、かけ離れすぎていて実感が湧きません。そもそも野良猫カラス鳩以外の動物を見かけないわけですから。そうなってくると、実感の湧かない遠くで起きている事件について、文字通り“言いたい放題”です。言ったって自分には何ら影響がないわけですから。自分に影響が加わらない立ち位置から相手へ影響を与えようとする。でもそうしたい気持ちは僕だってよくわかります。地方でヒグマが殺されている、もっと言えば猫が、ノイヌが、グリーンアノールが、“人間によって殺処分されている”その事実に怒りが湧くのです。人間はいったい何様だ、動物は何も悪くないじゃないか、自然に手を加えるな、自分もそんな人間の一人であることを忘れ、つい批判してしまいます。

 でも、そんな都会で暮らしている人間も、地方の恩恵を絶対に受けているのです。食べ物、エネルギー、観光資源、挙げればキリがありません。もちろん僕ら地方で暮らす人間も、日本を牽引する都会の人々の恩恵を強く受けています。持ちつ持たれつなわけです。と、話はそれてしまいましたが、ヒグマを獲るとなると、いつどこから批判が来るかわかりません。こちらの行為の正当性を主張するために、理論武装をしておく必要があります。そういった意味でも「大義名分」というのは非常に重要なわけです。

改めて問う「なぜクマを撃ちたいのか」

 ただ、そういった大義名分を掲げここまで来た僕ですが、自分の中で今までなかった感情が産まれつつあります。それは「クマを獲りたい」という気持ち。自分の心の内から出る、純粋な欲です。言ってみれば“私利私欲”です。以前はクマを獲るという行為に対して、何かしら理由が必要でした。クマを獲ること自体が後ろめたい事だと感じていたからです。愛護の対象で、山の自然の象徴で、高い知能を持つ哺乳類。そんな生き物の命を奪うわけです。「そんな偉大な存在の命を奪うわけだから、それ相応の理由が必要だ。」そう考えていました。

 しかし今はどうでしょうか。全く後ろめたさを感じないというわけではありません。変わらずヒグマは山の王者で偉大な存在だと認識しています。でも「ヒグマと同じ土俵に立って、命を懸けた勝負がしたい。」「脂ののった熊肉が食べたい。」「獲れる人間でありたい。」先ほど述べた大義名分とはかけ離れた、私的な想いが強くなっているのです。

 批判を覚悟で言いますが“クマとの勝負が楽しい”のです。日常では絶対に感じる事のない恐怖と引き金を引いた後のアドレナリンの放出。そして、解体した肉をおすそ分けするとびっくりするくらい喜ばれます。今まで臭い固いとクマ肉に抵抗のあった人も、「こんなうまいものだとは思わなかった」と認識を改めてくれます。そして、自分の中でもっと大きな羆を獲りたい、秋のクマを獲りたい、と今までなかった欲望が湧いてきます。

 大義名分を掲げヒグマの捕獲を目標にしていた自分と、純粋にヒグマを獲りたいと感じる自分、どちらも気持ちに嘘偽りはありません。世間的に見ると、きっと前者の方が“正しい”でしょう。それでも、僕の中に新たな感情と欲望が芽生えたのは間違いありません。今改めて「なぜクマ撃ちになりたいのか」それを問われると、この二つの気持ちが入り混じった、曖昧な答えになってしまいそうです。

レジェンド達の見る目が変わった

 猟友会の70代80代のことを、僕が勝手に「レジェンド」と呼んでいるだけで、なにか伝説的な記録を残していたりするわけではありません。僕の住む地域のレジェンド達はまだエゾシカがこっちまで来ていなかった時代に、キツネやヒグマを獲ってお金を稼いでいた人々です。巻き狩り、忍び、穴狩り、形を問わず皆がそれなりに春グマ駆除に関わってきました。故に、クマの恐ろしさというのは色濃く伝承されています。軽い気持ちで「クマをやりたい」というと、シンプルに怒られます。

 ただ、怖さを知っているからこそ、僕がクマを獲った事実に対して、心の底からおめでとうを言ってくれます。まずは獲り方なんて関係なしに「一頭は一頭だ」とほめてくれました。そして数を重ね、山を歩いて獲る、警察の前で獲る、獲った頭数が増えるにつれて、ますますおめでとうの言葉が強くなります。80代後半のほとんど歯の抜けたレジェンドですら、かすれた声で「おめでとう、よく頑張ったね」と言ってくれます。なんとなく「認められた」気がします。罠の止め撃ちを任せてくれたり、支部長の判断を仰がなくてもよくなったり、どことなく物事を任せてくれるようになったと思います。ただ、別に僕の所属している猟友会は、クマがどうとか関係なしに、クレーをやる人も狩猟をやる人も若い人も30代40代の新規の会員も、皆分け隔てなく良くしてくれるので、居心地のよかった場所が、より居心地がよくなったという程度の変化です。こきつかわれることも増えましたしね笑。

これから何を目指すのか

 クマを撃ってもお金にならない、名声も得られない、批判の対象になる、そんな世の中ですが、やはり僕はクマを獲りたいです。まずは今年の秋グマ。春グマと違いブッシュも多く、クマの撃つべき範囲はより狭まり、難易度がグッと上がることでしょう。だけども、獲りたい。食べたい。この気持ちが「猟欲」なのでしょうか。

 ただ、これだけクマに対する心持ちが変わっても、やはり檻罠に入ったクマの止め撃ちは、心苦しいものがあります。森の神とは言え人間の作った檻罠に入ってしまえば、その牙も爪も太い骨も大きな筋肉も役に立ちません。決して箱罠による捕獲を否定するわけではありません。状況により適した捕獲手法がありますし、安全性や確実性といった面からも、銃ワナそれぞれにメリットデメリットがあります。ただ、檻罠で吠えながら揺らすヒグマの姿を見て、いい気分にはなりません。クマに限った話ではありません、アライグマもシカも、罠にかかって抵抗できない獲物に対する止め刺しは、心を抉るものがあります。

 そんなこんなで、相変わらず“駆除”と“狩猟”の間で、いや、駆除と狩猟ではなく、もっと違う、捕獲手法の違いに葛藤を抱えているのかもしれません。檻罠の中のヒグマの咆哮は、未だに夢に見ます。そしてヒグマに襲われる夢もたくさん見ます。アライグマの止め刺し前のつぶらな瞳や、開いた瞳孔の淡いグリーン、いつでも頭に浮かべることができます。でも、現場を知ることが出来て本当に良かったと、心の底から思います。ヒトと野生動物の最前線、地元に居る時は想像もできなかった生活ですが、本当に充実しています。そして、こういう世界を知らない方々が「現場を知りたい」と思った時に、一つの選択肢としてこのブログが力添えできるよう、ブログの運営を続けていきたいと思います。

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